了見さん花粉症になる

了見さん花粉症になる

……っくしゅ

控えめな、子猫がするようなくしゃみの音がして、一同は振り返った。
そして二度見した。

っくしゅ、くしゅ、くしゅ。

今度はその音が連続して生まれる様を見てしまった。

音の主は口元をハンカチで押さえる清楚な乙女……では無い。
顔立ちこそ整っているが、わりと図体がでかくて声も太くて態度も尊大なはずの、男だった。



春。
満開の桜のもと、ビニールシートを敷いて各々足を伸ばす。

事の発端は、遊作が「花見をしたことが無い」と呟いた事だった。
すぐに草薙が泣きながら準備を整えて、その場にいた尊と常連さんとそのお供も連れて近所のお花見スポットに直行してしまった。

草薙本人はさっさと施設の許可証を貰って、弟の仁と共にキッチンカーで出店している。

「で、花見は何をすれば良いんだ」

「花を見れば良いんじゃない?」

「見たが」

「見たね……」

遊作と尊が顔を見合わせて、もしかしたらこれは大して楽しくないのでは、と思いかけたその時だった。
一言で言えば、とても可愛いくしゃみを鴻上了見がしていた。しかも何度も。



「鴻上ってそんなくしゃみすんの!かわいーな」

丁度、話題に飢えていた尊が早速食いついて手を叩いた。からかって顔を覗き込もうとする。

「え、もっかいやってよ。遊作、携帯で動画撮るのってどうやるんだっけ?」

「穂村、きさま……楽しそうだな……わたしの、っ……」

じろりと尊を睨んだ了見は、言葉を続けられずに途中で息を詰めた。
ぶしゅ、と押しつぶしたくしゃみが漏れる。

あはは、と声を上げた尊は一点の曇りも無く満面の笑みを湛えた。

「お前のそんなザマを見て、楽しくないわけ無いだろ」

「了見、もしかしてお前、花粉症なのか?」

動画動画、と尊にせっつかれながら、遊作は了見に問うた。

「花粉症?桜の花粉症なんてあるの」

「いや、主なアレルゲンは杉花粉だが、この場に杉が無くても、大気には大量の杉花粉が飛散しているんだ。
今年は特に花粉の量が酷いと草薙さんが言っていた」

尊とは違って理解を示す遊作の言葉に、こくこくと了見は頷く。

「そうですよ。了見様は花粉症なのです。薬は服用していますが、こんな天気の良い日に外出するとどうしても症状は出てしまう。
本来なら外出自体控えるべき時期に、まさかこんなことになるなんて」

ろくに喋れない主人の代わりに、スペクターが口を開いた。

「え、だって普通にカフェナギでホットドッグ食べてたじゃん……花見だって、嫌なら断れば良かったのに」

「それは、カフェナギに行くとあなたたちがいるからでしょう。
ホットドッグの味が気に入ったと言いながらあわよくば好感度を上げたり信頼を深めたりしたいという思いがあるからこそ、私からすれば凡庸なホットドッグ店に足繁く通っているんですよ」

ゴホッ!!!
了見が盛大にむせた。

「そんな了見様が、花見に誘われて断れると思いますか?誘われてすぐに薬を追加服用したせいで眠気も酷い中、がんばってこの場に参加されている了見様の気持ちが分からないなんて。
穂村尊、あなた人の感情あるんですか?」

「全部暴露してるお前に言われたくないんだよな……」

「スペクター。了見が倒れてるぞ」

遊作が指で示した先では、シートの上に突っ伏した了見がぶるぶる震えていた。

ああっ!了見様大丈夫ですか!?とスペクターが助け起こし、何という酷いことを穂村尊、とかなんとか呟いている。

なんだか大変そうだなあ、と思いながらも、尊はちゃっかりと携帯を録画モードにしてもらって、了見をフレームに収めた。
ち、ち、と録画時間を示す秒数が増えていく。
尊はフレーム越しに対象物の様子を伺った。

いつもの覇気が完全に消えている。ハノイのリーダーとして、常に上から目線のリボルバーの面影はどこへやら。
花粉症のためか羞恥のためか、目元と鼻を赤らめて、目尻には涙まで浮かべて縮こまっている。
スペクターが差し出している箱ティッシュには可愛いウサギがプリントしてあって、ああこれセレブなやつだ、と妙に納得した。

ーーこんなウサギが田舎の近所に居たような。まあ、良いだろ、たまには。

頭脳やら容姿やら財産やら人望やら、巷の人間が欲する物を全て持っている了見。
尊からしてみれば数ランク上の存在であり、普段、弱みらしい弱みを見せない彼が、こうして人間らしくアレルギー症状に苦しんでいる様は親近感が湧く。
それどころか優越感すら覚える、とても希なことだ。

そんな事を思いながら尊がふふっと笑った、その刹那。

「穂村」

ひどく苛立ちを含んだ低い声で名を呼ばれて、尊の背筋がびくりと震えた。

見れば了見が正面から尊を睨み付けていた。スペクターにお茶を貰いながら。

「お前は、知らないようだから教えてやる。
花粉症を患っている者は、症状に耐えて眠れぬ夜を過ごすか、薬を飲んで活動時間を睡魔に捧げるかの二択を常に迫られているのだ。
そして杉花粉の飛散時期は2月から4月。ヒノキアレルギーがあっても花粉症は5月には終わる」

「……だ、だから……?」

「時が来たら、お前に眠れぬ夜をくれてやる。覚悟しておけ」

その声は、消して大きくは無かったが、腹の底から絞り出すようなドスの効いた声音で尊の全身を撫でた。

鋭い眼光は、普段の冷ややかで凜然としたものとは違って。もちろん、ウサギなど小動物のような可愛いものでも無くて。
怒りを纏い、充血して爛々と光るそれはまるで、地獄の泥濘の中から天上に呪詛を吐く悪鬼を彷彿とさせた。



本能的にヤバいと感じた尊の口から細い声が漏れるのと、
「よ~~楽しくやってるか?」
と明るい草薙の声が振ってきたのはほぼ同時だった。

「腹減ったろ?ホットドッグたくさん作ってきたから食べてくれ。団子もあるし、あと、ジュースな!酒はもう数年待ってくれよ」

どさどさとビニールシートに置かれる大量の荷物に遮られて、了見と尊の間の視線は切れた。

「お、花粉症か?俺もだ。眼球とか鼻とか喉とか、全部取り出して洗いたくなるよな!」

などという爽やかな声に救われた思いで、尊はこそこそと遊作の背後に避難した。

ドクドクと心臓が鳴りっぱなしだ。
携帯を握る手は嫌な汗をかいて、力が入っているのかいないのかわからない。

「遊作、ごめん……動画の消し方教えて」

「尊?どうした、顔が青いぞ」

「春が終わるのが怖い……」

動画を消去する前に内容を確認した遊作は、事情を察して慰めるように尊の頭を撫でた。