スペクター

スペクター

――私には心がある
――私は生きているのだ
悲痛な叫び声が聞こえた。
頭に直接響くその声は、何度か同じ言葉を繰り返しながら、徐々に弱くなっていく。

「……何度目ですかねえ、この安眠妨害は」

完全に聞こえなくなる前に、スペクターは目をこじ開けた。
夢だと分かっていたので対処はし易い。目覚めてしまえば声は消えると分かっていた。
不快な気怠さに包まれながら身体を起こすと、いつもよりシーツが乱れていた。
まるで動揺した証左のようにも思えて、スペクターは眉間に皺を寄せる。

「私に恨み言を聞かせて何の意味があるんです。私は無駄な事は嫌いなんですよ」

静かに空気を吸って、鉛のような頭を稼働させる。
今日こなすべき仕事の内容を一つ一つ頭に思い描くと、その量に比例して気分が高揚していった。

幸せです!!私の力がこんなにも求められている!!

無駄な事に使っている時間は無いのだ。スペクターに与えられた業務は山のようにある。
極力、身の回りの世話を焼く人員を増やしたがらない主人のせいだ。

己が心に決めた主人のために働ける。こんな幸福を、たかが夢見ごときで壊すなど愚かしい。
ベッドを降りて身支度に向かったスペクターの顔は、すっかり普段通りの微笑を湛えていた。



それなのに。



「イグニスが消失すると、その発生元――オリジンの人間に影響はあるのか」

己が幸福の中心に居る主人にそんな事を言われて、スペクターのテンションはがらがらと崩れ落ちた。
危うく注いでいた紅茶を溢すところ。

酷いです。了見様。

心の中だけで文句を言いながら、きちんと8分目まで紅茶を注いで、カップの向きを整えて。
どれほど心を乱されても手は定められた通りに動く。

「何故ですか?そのような事を突然」
「いや、少し……気になった。今まで、イグニスを消失させれば全て片付くという前提で動いていただろう。
 しかしイグニスは確実に世の中に生まれてしまったもの。消したところで、過去に戻るわけではないからな」

質問を返された了見の歯切れは悪い。
自分でも分かっているのだ。こんな事を気にするのは、らしくないと。

だって、もう消えてしまいましたからねぇ。土、風、水、火、光、闇。6属性きれいさっぱり。
闇に至っては、オリジンまで消えましたからね。

やると決めたらとことん。
それが、スペクターが敬愛する鴻上了見の本来の思考だ。
その彼がこんな、朝一番の寝起きとはいえ少し自信が無さそうな表情を浮かべているのには心当たりがあった。
――全くもって、認めたくない心当たりが。

炎の決闘者。ソウルバーナー。
あれに影響されているのだ。

思わず舌打ちしてしまってから、スペクターは誤魔化してゴホンと咳払いした。

ソウルバーナーとは、随分と良い決闘をしたらしい。
その日の主人はかつてないほど上機嫌だったので、スペクターも嬉しくなってシフォンケーキを焼いてしまったほど。

決闘は、本気の勝負になればなるほど、お互いに気持ちが通ずるものだ。
ロスト事件の加害者側と被害者側の立場になって、正面からぶつかって。

それで迷いが晴れた?良いですね!
過去が清算できた?すばらしい!!
会えて良かった?おめでとうございます!!!
――でもそれは、決闘だけで事が済めばの話だ。

決闘だけなら両手放しで賞賛できていたところ、気持ちが通じた結果としてソウルバーナー本人にまで興味が出てきてしまった事については、スペクターは良し悪しを判断しかねていた。

今の質問だって。
知りたいのは、「イグニスを失ったオリジンがどうか」ではなく、「炎のイグニスを失った穂村尊がどうか」でしょう。

そんな捻くれた声が脳裏を過ぎるが、それでも主人には最大限の真摯な姿勢で向き合いたい。
紅茶を啜りながら静かに言葉を待っている了見を見ながら、スペクターは言うべき言葉を探した。
直前、まさにその夢を見ていたおかげで、イグニスについての記憶はかなり鮮明だった。



土のイグニス、アースと名乗ったらしい。スペクターから生まれた、知能を持つAI。
SOLテクノロジーに捕らえられ、データ解析のために解体されたのだと聞いた。
おそらく、何度となく夢で聞こえてくるのは最期の断末魔というものだろう。

イグニスでありながら愛情に近い感情を覚えたアースは、精神面だけで言えば、オリジンであるスペクターよりもよほど人間らしいように思えた。
自分には心がある。生きている。
だから殺すなと、そう訴えて慈悲を請うたが、SOLテクノロジーは耳を貸さなかった。

――それはそうでしょう。心を持つという事と、人としての権利を与えられるというのは全く別の話です。
伐採され、踏み荒らされる木々や草花に心が無いとでも?

スペクターはふんと鼻を鳴らす。
ハノイもイグニスを捕らえれば抹殺するつもりでいたのだ。
SOLテクノロジーの行為自体に思うところは無かったが、問題は、アースが消滅する間際。
イグニスとオリジンの間には、無視できない繋がりが存在するということを思い知った。

その痛みは、ただ一度きり。
我知らず、理由もわからず落涙するなど、後にも先にもこの時だけだろうとスペクターは思う。



「私には、土のイグニスとの面識は無かったので、参考になる事が言えるか分かりませんが」

了見が紅茶のカップから口を離した。

「何かが消えた感覚はありましたね。胸のあたりから――心臓とも胃ともつかない、身体の中心部分から。
痛みのようなものもありました」

痛みの正体は喪失感だ。
身体の奥底が、無理矢理に大きく抉られる感覚。
その後にぽっかりと開いた穴は、光すら届かぬ奈落に似て、何物でも埋められない。
何か、あるべきだったものが欠損したと分かるのに、それが何であったかを認識できない。
ただ、己の一部が永遠に失われたという事実だけがそこにあって、生ぬるい涙が溢れて止まらなかった。

涙を流しながら、スペクターは思ったのだ。
アースに会わなくて正解だったと。

姿形も知らず、言葉も交わさず、信頼も無く。
自分には他に寄る辺があったから。
酷く人間じみた愛情を持ったイグニスであるなら、その喪失によって理想に近づけた気すらする。
アースとの接点が無かったおかげで、削られる部分も最小限で済んだのだ。

もし仮に、そうでなければ。
たとえば
言葉を交わし、信頼関係を築き
肉親の情を抱くほどになっていたなら――

スペクターは目を細めて、記憶の中から像を結んだ。
炎の決闘者。ソウルバーナー。
以前、彼の左腕には、常に炎のイグニスが居た。
数えるほどしか目にしたことは無いが、彼らの関係がどのようなものであるかはすぐに分かった。
他者が入り込むのを拒むような、2人だけの甘ったるい空気がそこにあった。

――ぞっとしますね。

「ですが一時的なものです。大したことはありませんよ」

スペクターは明るく声を作った。
努めて、己が主人には真摯な態度で。ただ、情報は全て渡せば良いというものでは無い。

「そうか」

了見はじっとスペクターを見ている。
無表情な顔に、刃のような青白い眼光。
普段、あまりスペクター自身に向けられる事が無い厳しい視線を受けて、背筋がぞくぞくと震えた。
――まるで駆け引きのようですね。
ふふ、と口角が上がって声が漏れる。

「人によっては、多少落ち込むかも知れませんねえ……イグニスを友人と思っていたのなら、それを喪ったわけですから。
 ――あの、穂村尊のようにね。
 私からすれば、そこまでAIに入れ込む方が愚かなのですが」

その名を出すと、見る見るうちに了見の眼から険が落ちた。
問いの核心を突かれた事を恥じるようにスペクターから視線を逸らし、そうだな、と呟いて紅茶を飲む。

「つまり、知人を喪う事と同じようなものだと?」
「そう思います」
「そういうものか」
「ええ」

話題ははそれで終了だった。



すっかり下がってしまったテンションを上げるために、スペクターはまた一つ一つ、仕事を数える。
掃除、ゴミ出し、洗濯、炊事。決算報告書、サーバーメンテナンス、一部リプレース。アバター調整、LVスキャン、システム内不穏要素の洗い出し。

――ああ、これらに比べたら本当に無駄な話題でした!

不意にまたアースの声が聞こえた気がして、スペクターは顔を歪めた。

ソウルバーナーを最後に見たのはいつだったか。
闇のイグニスと共に消えたプレイメーカーは。
比較的影響が少ないと思われる水や光のオリジンだが、本当にそうだろうか。
彼らは今、無事でいるのか。

普段は気にもしないそんな事が頭をちらつく。いずれも、いつもならば無駄な事だと切り捨ててしまうものだ。
今日は一日、盛り上がらないで終わってしまうかも知れない。不本意極まりないが。

スペクターは、目の前で紅茶を飲む主人に気取られないように、小さくため息をついた。

貴方は知らなくて良いんですよ。了見様。
貴方にはもっと大きな世界が似合う。
過去に因縁があるとは言えたかだか5人、そんな些事に心を砕かないで欲しい。

――だって。言ったところでどうにもなりませんからねえ……。

知ったところで何もできない。
この穴を埋めることなんて、誰にも。
たとえ貴方であっても。

スペクターは、未だ喪失感を抱く胸元を強く握った。